岩下志麻:芸術エロチシズム映画の大スターで演技をしない演技派女優

モデル・岩下志麻、撮影・秋山庄太郎。「週刊現代」1965年6月17日号、表紙。人名辞典
この記事は約12分で読めます。

岩下志麻は1941年に日本の東京銀座で生まれた映画女優です。ホームドラマの娘役からメロドラマのヒロイン役を経て、芸術エロチシズム映画の大スターになりました。好きな花は薔薇、好きな色は薄紫。

一番有名な映画は「極道の妻」シリーズですが、それ以前の志麻ちゃんは、どちらかというとキュートな女優。

冒頭の肖像写真は「週刊現代」1965年6月17日号の表紙を飾った岩下志麻。撮影は秋山庄太郎。

略歴

両親はともに新劇俳優で父は野々村潔(本名・岩下潔)、母は山岸美代子(本名・岩下美代子)。

1960年に松竹へ入社。同年公開の篠田正浩監督「乾いた湖」でデビュー。以後、役柄が多く、とくに女性の情念を華麗に演じる女優として日本映画界で特異な水準に達していきました。

小学生

小学校入学から高校卒業まで東京の吉祥寺で過ごしました。志麻の母が劇団「前進座」の河原崎長十郎の妻しづ江と姉妹の関係にあり、1棟形式で7棟ある前進座の集合住宅の近くに暮らしました。そこを開場とした東京公演の時に志麻は毎日劇場に通い、アイスクリーム販売をしました。

▼前進座のサイト(外部リンク)

劇団前進座公式サイト
前進座

中学生・高校生

小学生の頃から日本舞踊を学びます。中学生では遠縁の岩井紫若に師事。小学生の頃から男役が多かったといいます。その傍らで精神科医をめざして受験勉強や日常勉強に没頭。もう勉強がたたり、都立武蔵高校2年生の時に4ヶ月間の入院。

血沈が通常の150倍に増え、脊椎カリエスとも診断されました。最終的な病名は小児リューマチ熱。この入院のため休学し、高校2年生を次年度も続けることになりました。

▼ドラマ「バス通り裏」での十朱幸代とのツーショット(外部リンク)

十朱幸代さん デビュー作で共演した岩下志麻さんの思い出|私の秘蔵写真
 デビューは1958年から5年間、生放送されたNHKの伝説の連続ドラマ「バス通り裏」。当時高校生だった十朱幸代さん...

2回目の高校2年生の時(1958年)、父の友人に頼まれてNHKの連続テレビ・ドラマ「バス通り裏」に十朱幸代の友達役として出演。このドラマは生放送。

ここで準レギュラーとなり、1週間に2回ほど下校中にNHKの銀座スタジオに通うことになりました。かなり忙しくなったため、自由な校風である私立明星学園に転校。

大学生

「バス通り裏」出演をきっかけに仕事が増えていきましたが、大学進学の希望どおり受験し、1960年に成城大学文芸学部に進学しました。大学生の頃の志麻は精神科医になることは諦めていて、かといって女優になることにもためらっていた時期でした。

▼成城大学文芸学部のサイト(外部リンク)

文芸学部 | 成城大学
モデル・岩下志麻、撮影・秋山庄太郎。「週刊現代」1965年6月17日号、表紙。

モデル・岩下志麻、撮影・秋山庄太郎。「週刊現代」1965年6月17日号、表紙。

特選つづら御召(1965年10月):岩下志麻
この広告は「主婦の友」主婦の友社、1965年10月号58頁に掲載された大竹絹織株式会社(東京都八王子市)の「特選つゞら御召」です。モデルは岩下志麻。

映画デビュー後

1967年3月3日に岩下志麻は篠田正浩監督と結婚。独立プロダクション「表現社」を設立。1976年に松竹を円満退社しました。

「婦人画報」1967年12月号:表紙(岩下志麻)と目次
「婦人画報」1967年12月号表紙。カメラ:奈良原一高、衣裳:宮沢有紀、モデル:岩下志麻。今月の特集:パーティーのきものとドレス。夜の集まりに着るコートとドレス:ピエール・バルマン、ルリ・ 落合、夜の装いについての小事典:ルリ・落合、ほか。
岩下志麻さんの変貌:「きもの・ファッション」コーナー
このページでは「婦人画報」1971年1月号に掲載された岩下志麻の衣装4点を紹介しています。この4点は「きもの・ファッション」コーナーの一つに編まれたものです。カメラは篠山紀信、前2頁のヘアと着つけは名和好子、後2頁のデザインは鈴木宏子。

その後は夫婦共同で映画制作に取り組み、テレビ・ドラマに出演したり化粧品や電化製品のコマーシャルにも登場するようになります。他の女優では越えられなかった映画「極道の妻たち」シリーズの貫録とは裏腹に、意外にキュートな一面を覗かせる象印魔法瓶の宣伝はとくに印象的です。

次の写真は岩下志麻が出ていた化粧品会社メナードの広告です。

メナード 広告誌 Shirayuri Menard News 岩下志麻

メナードの広告誌「Shirayuri」Menard News、1992年9月号。被写体は岩下志麻。

美へのいざない Guide to Beauty メナード 広告誌 Shirayuri Menard News 岩下志麻

「美へのいざない Guide to Beauty」メナードの広告誌「Shirayuri」Menard News、1992年9月号。被写体は岩下志麻。

志麻さんは和服も似合いますが、洋服・洋装もかなり映えることが分かります。

映画女優初期のエピソード

笛吹川 : 1960年

1年生の時に松竹映画から新人契約の話をもってこられ、目標を失っていた時期ゆえに気楽に契約をします。最初の撮影は「笛吹川」で1ヶ月半ほどロケが続きました。

これを機に志麻の女優願望が高まるわけではありませんでした。この1本で女優を辞めようかと思っていると、松竹の新人契約は3年契約だということを知らされます。

乾いた湖 : 1960年

そこに、当時松竹の行なっていた新人監督起用方針により助監督から監督へ抜擢された篠田正浩から強い出演要請を受けます。篠田の2本目の監督作品「乾いた湖」でした。監督はこの映画の女子大生役を探していました。

結局、「乾いた湖」が「笛吹川」より先に公開されたため、志麻にとって「乾いた湖」がデビュー作となりました。

秋日和 : 1960年

そして志麻の3作目となったのが小津安二郎監督の「秋日和」。ベテランの俳優・女優でも100回撮り直すことがあるという小津の撮影で、志麻の演技は1回でOKとなります。

小津の作品は生の人間を描くため、無心になって(一種ぽわーんとした感じで)演技しないとOKは出にくいのです。志麻は自伝のなかで「人形に血を通わす」必要があると、小津映画の特徴を指摘しています(岩下志麻『鏡の向こう側に』主婦と生活社、1990年、77頁)。

この特徴は的確で『日本映画女優史』も次のように指摘されています(私の書評「日本映画女優史 : これだけで20世紀を鳥瞰できる」もご参照ください)。

小津安二郎は、美しい女優を、ほとんど演技らしい演技もさせずに、まるでお人形のように画面のしかるべき一にきれいに飾っておき、それでいてその女性を、生き生きとした血の通った、ふくよかな情感のある女性に仕上げてみせる名人であった。

(佐藤忠男・吉田智恵男編著『日本映画女優史』フィルム・アートシアター、1975年、218頁)

日本映画女優史:これだけで20世紀を鳥瞰できる
日本映画女優史 : 1910年代半ばの女形の時代から60年代半ばのポルノの登場まで、約半世紀の日本映画に出演した女優たちを紹介しています。構成を見ますと、前半は日本映画女優史フォトアルバム(約160頁)、後半は文章中心の日本映画女優史(写真は1頁1点ほど)が約70頁、最後に主要映画女優名鑑が約30頁です。分量的にこれ一...

秋刀魚の味 : 1962年

「秋日和」から2年後に志麻は再び小津の作品に出演します。この2年間で志麻には女優の癖が付き、血の通う人形ではなくなっていました。「秋刀魚の味」の撮影では1回でOKが出なくなったのです。この映画での役柄は母を失い父と二人暮らしをする娘役でした。

自分の好きな男性が他人と婚約した話を聞いて、ミシンを前にして一人で寂しくしている場面を撮影する時に、小津は巻尺を使うことを提案します。呆然としながら、手中で巻尺を3度回しながら引っ張り出し、1度ふわっと戻し、再び2度回してふわっと戻すという場面です。この単純な演技になかなかOKがもらえなかたっと志麻は『鏡の向こう側に』で回想しています。

私はこの映画の中で、父(演笠智衆)と部下と一緒に、恋の終わりを話す志麻さんの姿がとても印象的です。広い襟の白色ブラウス、黒色のカーディガン、赤色のロングのスカート、そして星座の後ろ姿から顔を覗かせる白色の靴下。配色が配役の状況を端的に示しています。志麻さんの姿も娘と女性の両方を上手く表現しています。

その後

当時の松竹はメロドラマ路線を復活させるために「あの波の果てまで」に岩下志麻を起用し、大ヒット。この作品で松竹の看板女優となりました。

下の雑誌表紙は「好人好日」撮影直後に「あの波の果てまで」完結篇の撮影に入った頃。小さい頃から泳ぎが好きだったのに、この映画のために会社から水泳を禁止されたそうです。

「芸能画報」1961年10月号、モデル・岩下志麻、帽子提供・東京そごう

「芸能画報」1961年10月号、モデル・岩下志麻、帽子提供・東京そごう

「芸能画報」1961年10月号:カバーモデルは岩下志麻
「芸能画報」1961年10月号 : カバーモデル・岩下志麻。岩下志麻のプロフィール記事のうち「その後」で紹介した雑誌カバーです。当時の松竹はメロドラマ路線を復活させるために「あの波の果てまで」に岩下志麻を起用し大ヒット。この作品で松竹の看板女優となりました。
時代劇ミステリーで新境地にいどむ清純スター:岩下志麻
この表紙は「五瓣の椿」撮影時のものかと思われます。志麻ちゃんの写真は形式ばった着物が多いのですが、これは笑顔が映えていてラフな柄にラフな表情がマッチング。といってもカバー撮影なのでヘアスタイルはバッチリとアップ。

邪馬台国 : 1974年

「邪馬台国」は篠田正浩監督、岩下志麻主演の夫婦コンビで作られた映画。志麻の演技力が遺憾なく発揮されて、卑弥呼を魔女風に強いキャラに仕上げています。次の雑誌表紙は「婦人画報」から。「卑弥呼」撮影前の時期に写されたものです。

「婦人画報」1973年2月号。表紙モデル・岩下志麻

「婦人画報」1973年2月号。表紙モデル・岩下志麻

巻末の「表紙のひと」をまとめた竹内篤はイヴ・サンローランのトップモードが映えると志麻を称賛されています。この撮影時期はテレビドラマの撮影が終わった後。デビュー当初からの写真を集めたシネアルバム「岩下志麻」が出版され、一時的な休暇期間でした。

休暇が終われば前年から準備の進む「邪馬台国」の撮影に入ります。マイホームの幸せに浸るような温い女優ではなく、筆者は「どこまでも女優」と志麻のスタンスをまとめています。

今井正監督・岩下志麻主演「婉という女」映画パンフレット
婉という女 映画パンフレット : 1971年5月29日(土)に公開された今井正監督映画のパンフレットです。パンフレットの内容はスチール写真をたくさんまぶし、この映画に対するエッセイを史実や時代考証などから複数の方々が論じています。岩下志麻「”婉”を生きて…」が収載されています。
友禅のきもの 京友禅:岩下志麻
このページでは『婦人画報』1972年9月号から、京友禅を着た岩下志麻さんの写真2点を紹介しています。1枚目は柄の配置と帯の亀甲形が大胆で格好いいと思いました。2枚目は座っていることも関係してややラフな感じ。
「婦人画報」1974年4月号の表紙:岩下志麻
これは「婦人画報」1974年4月号の表紙です。これが撮影された時期は映画「卑弥呼」完成後のキャンペーン中。「卑弥呼」で岩下志麻は幻想的な白い衣装と白塗りのメイクアップをしていたので、この表紙撮影ではカラフルにと編集部。
モノクロームとカラフルを着わける:岩下志麻
このページでは、岩下志麻の写真を6点紹介しています。「婦人画報」1975年1月号に掲載されました。「私のワードローブ」と題して著名人の所持衣装を紹介するコーナーで「モノクロームとカラフルを着わける」と題して志麻ちゃんの衣装が6点出てきます。

鬼畜 : 1978年

『別冊文藝春秋』1957年4月号に掲載され、後に短編小説化された松本清張の『鬼畜』。この小説は1978年10月7日に製作・配給松竹のもとで映画化されました。野村芳太郎監督、岩下志麻・緒形拳主演、松竹衣裳(衣裳提供)。

この映画でお梅役となった岩下志麻は夫の愛人の子供たちと共同生活をするも虐待や育児放棄をし、直接・間接的に殺してしまうという鬼畜な女性を演じました。もっとも夫が悪いという面も強い複雑な作品ですが。

この映画上映後に岩下志麻は篠山紀信との対談として雑誌に次のようなコメントを述べています。表紙の人との簡単な対談をまとめた「紀信の表紙 おんな女おんな」という連載から。

紀信の眼 髪もきれいに結いあがり、着付けもバシッと終わった。岩下さん、枯葉の上に寝転んでもらいたいんだけど。「いいわ、わたし寝るの大好き。ちょっと帯がじゃまね」

帯をほどいて、せっかく結った髪もバラバラに、ポラロイドを見ながら、

「色っぽいわねえ。いいの、こんなのが表紙で。でも20代のころ、篠山さんにあの写真撮っておいてもらってよかったわ」

彼女が29歳の時、僕が撮ったヌード写真のことである。

志麻一言 子供を殺す役で、毎日ヒステリーの演技ばかり。だから鬼面みたいになったわ。

出典『週刊朝日』1978年11月17日号、通算3156号、23頁

「鬼畜」上映後の岩下志麻。『週刊朝日』1978年11月17日号、通算3156号。表紙。

「鬼畜」上映後の岩下志麻。『週刊朝日』1978年11月17日号、通算3156号。表紙。

さわやかウール 自然素材を着る2:岩下志麻
このページでは、岩下志麻さんの洋装を4点紹介しています。臨時増刊「マダム」1978年4月号(通算164号)の特集「さわやかウール : 自然素材を着る2」に掲載されました。

篠田正浩との結婚 : 結婚の条件と女優業の継続

映画での共同作業をつうじて、1967年3月3日に岩下志麻は篠田正浩監督と結婚しました。「家事はしない」が結婚の条件でした。篠田はこれに対して快諾します。

女優にとって過程は休息の場であるべき、軽くストレスの解消になれば家事も良いが負担になるならやらないことと理解を示しました(『鏡の向こう側に』127頁)。また、女優は家庭の疲れを持たずに撮影現場へ行くべきだとも考えていました(「婦人公論」2003年1月22日号、13頁)。

大倉舜二の秘蝶館 岩下志麻
テーマは岩下志麻と篠田正浩の夫婦関係を大島渚・小山明子、吉田喜重・岡田茉莉子のカップルと比較している点が面白いです。志麻・篠田関係が最も女優・監督関係を維持していたと。

出演映画の感想

「極道の妻たち」のシリーズ

20歳くらいの頃、「極道の妻たち」のシリーズで志麻さんの出演映画をまとめて見ました。その後、「北の螢」「鬼龍院花子の生涯」「この子の七つのお祝いに」など1980年代の作品群を見ました。小津監督の2作品を見たのは40歳くらいで、20代で見ていたら志麻さんのキュートな面をもっと早く知れたのにと少々残念。

「砂の器」

野村芳太郎監督・岩下志麻出演「砂の器」1974年

野村芳太郎監督・岩下志麻出演「砂の器」1974年 (c)SHOCHIKU FILMS

どの出演作品も志麻さんには和服が中心ですが、日本のファッション・デザイナー森英恵が述べたように志麻さんは洋服も似合います。「砂の器」は女性弁護士を貫録たっぷりに演じたものです。裁判仕事で洋服、プライベートでは和服を多く着ています。

野村芳太郎監督・岩下志麻出演「砂の器」1982年

野村芳太郎監督・岩下志麻出演「砂の器」1982年 (c)SHOCHIKU FILMS

どんな服を着てもエロティックな衝撃を与えられる女優は志麻さんが最高水準にいると痛感します。

「卑弥呼」

このような思いを抱くようになったのは、VHS発売以来、DVDでは販売されていない「卑弥呼」(篠田正浩監督)です。20代半ばか30歳頃に深夜のテレビで見たように思います。

この作品は地理や経済という思想が根付かない日本の原風景を強烈に示した映画です。少女であり女性であり政治家でもある卑弥呼を志麻さんは一身で表現し尽くしました。

卑弥呼を演じる岩下志麻。 via 『アート・シアター』アート・シアター・ギルド、1974年3月、通算108号、表紙。

卑弥呼を演じる岩下志麻。 via 『アート・シアター』アート・シアター・ギルド、1974年3月、通算108号、表紙。

撮影当時の志麻は出産を終えた後でした。眉毛を剃って演技に臨みますが、帰宅すると赤ちゃんは不気味な母の形相を見て泣き叫んだそうです(『鏡の向こう側に』170~172頁)。志麻が迫真の演技で迫る卑弥呼を自宅に機にずりこみ、赤ちゃんは驚いたというところでしょうか…。

長い間、この映画を再び見られることを願っていますが、なかなか衛星放送で公開されることもDVDで市販されることもありません。辛うじてアマゾン・プライムでは視聴可能ということが最近になって分かりました。

関連リンク

  • 劇団前進座 公式サイト – 1931年に芝田村町・飛行会館で設立された劇団前進座の公式サイト。劇団紹介(劇団の歴史、劇団各部門、採用情報など)、公演情報、俳優・演出部紹介、友の会、前進座オリジナルグッズ 、トピックス。岩下志麻の母が前進座所属の河原崎長十郎の妻しづ江と姉妹の関係にありました。

コメント 質問や感想をお寄せください

タイトルとURLをコピーしました